披露宴会場はリラックスしたムードであちこちで笑い声があがっていた。
スピーチや歌もほとんど終わり、お酒も入ったせいか和やかなムードに包まれている。

「英夫、ちょっとトイレ行ってくるね」
優美は席を立つと出口の方へ歩きかけた。

その瞬間、ふっと意識が遠のいて体がよろけた。

思わず近くにいた従業員の肩につかまる。

「大丈夫ですか?」
若いウエイターはびっくりして優美の顔を覗き込んだ。

「ごめんなさい大丈夫よ」

優美は精一杯の笑顔を見せたが体はまだふらついている。

 

 



「どうした?」

優美の背中を目で追っているウエイターに年輩のマネージャーが声をかけた。

「あっ、マネージャー。
あちらのお客様、体調がすぐれない様です。顔色が真っ青でしたよ」

「新婦のお母様だな。わかった、私が気にかけておくよ」
「よろしくお願いします」

優美はトイレのドアを開けるとため息をついた。
大安の日曜日の今日は相当な数の披露宴が行われているのだろう。


トイレには着飾った女性の長蛇の列ができていた。
優美は気分のすぐれない顔を英夫に見せたく無かっただけだ。

 
とてもこの列に並ぶ気にはなれない。

そのままトイレを出ると座れる所をさがし始めたが、ロビーも人でごったがえしていてイスはひとつも空いていない。

 

 

優美は自分ではちゃんと歩いているつもりだったが、よほどふらついていたようだ。
優美の事を気に掛けていたマネージャーがやさしく声を掛けてきた。

「村上朝陽様のお母様でいらっしゃいますね。
もし、ご気分がすぐれない様でしたら医務室がございますので」

「そうですか、少し休ませてもらってもいいかしら?」
「はい、ではご案内いたします。どうぞ、こちらです」

マネージャーは人混みをかきわける様にして、優美を医務室に連れていった。

 

 


「先生、こちらのお客様ご気分がすぐれない様なのでお連れいたしました」

 
入り口に背中を向けて座っていた医者がイスをくるりと回して振り返る。

丸眼鏡を鼻の上にちょこんと乗せた医者のやさしそうな印象が、店のオーナーの井口にそっくりで優美は思わず笑顔になった。

「どうされました?」
「いえ、慣れない雰囲気でちょっと気分が悪くなっただけです。
少し休ませてもらえるとありがたいのですが・・・」

「わかりました。
一応軽く診察だけさせてもらいますね。
これも規則でして・・・  ホテルってのは何かと面倒なんですよ」

「何か大きな病気とか、過去に手術を受けた事などは有りますか?」

 


優美は一瞬何かを言いかけたが、ふと目をそらして言った。

「いえ・・ 特にないです」

「どこか痛いところとか無いですか?」
「ちょっと耳の奥の方が痛いですけど・・・」

 


「耳の奥が・・・」

 

 

医者は脈をとったり、聴診器をあてたり簡単な診察をすると
「はい結構です。ちょっと横になって休んでてください」と言った。

優美がベッドに横になると医者は気をきかせてくれたのか、カーテンを閉めると部屋から出て行ったようだ。

医務室を出た医者は内線で優美を連れてきたマネージャーを呼んだ。


今日はよほど忙しいのだろう、通路の向こうから汗を拭きながらマネージャーが走ってきた。

 


「先生、どうしました?」
「さっきお前さんが連れてきた女性だがな、披露宴のお客様か」

「はい、新婦のお母様です」
「披露宴はあとどのくらいだ?」

「このあとキャンドルサービスとご両親への言葉ですね。あと20分くらいです」

「そうか・・・」
医者はちょっとの間、考えこんでいた。

「私の思い違いだったらいいんだが、むかし良く似た症状の患者さんを診た事があってな」

「なんの病気です?」



  「癌だ」


「えっ・・・」
マネージャーは予想外の病名に言葉を失った。

 

 

「いや、そう決まったわけでは無いし、検査もしていないからな。
違うとは思うが・・・」

 

医者はいったん言葉を切ると少し考えていたが、どうしても優美の様子が気になるのだろう、マネージャーにこう言った。

 
「いいか、あのお客様が披露宴に戻ると言ったら、お前さんはすぐ横についていなさい。
そして、披露宴が終わったらここへお連れしてくれ。
私の先輩が外科部長をやってる大学病院に紹介状を書くから。
いまのうちに電話だけいれておくから、検査してもらった方がいい」

「わかりました」
マネージャーは緊張した面もちで頷いた。

二人が医務室の方へ戻るとちょうどドアが開いて優美が出てくるところだった。

 
優美は二人を見ると無理に笑顔を作ったが、その顔色は良くなるどころか更に悪化したように見える。

「お世話になりました。
良くなりましたので披露宴にもどります」

 
「本当に大丈夫ですか?もう少し休まれてはいかがですか?」

「大事な娘の披露宴ですから。
これを見届けたらいくらでも休めますから・・・」

二人が思わず顔を見合わせる。

「あっ、変な意味じゃないですよ。誤解しないでくださいね」
優美は顔の前で手を振りながら笑ってみせたが、足下はやはりふらついている。

「では、失礼します」
優美がくるりと向きをかえて披露宴会場の方へ歩きだした。
マネージャーがすかさずエスコートする。

二人の姿が見えなくなると、医者は急いで部屋に戻って受話器を上げた。

 

 

 

優美が披露宴会場に戻ると英夫が心配顔で聞いた。

「どこ行ってたんだ?」
「ちょっと気分がすぐれなくて休んでたの。ごめんね、もう大丈夫だから」

「本当に大丈夫か?お前、顔色悪いぞ」
「もう、平気だって。あっ、キャンドルサービスしてるんだね」

優美はやさしい目で朝陽の姿を追った。

新郎に腰を抱かれてテーブルをまわる朝陽はみんなに祝福されている。
グリーンのカクテルドレスに身を包んだ朝陽は、キャンドルの光を浴びてよりいっそう輝いて見えた。

英夫は優美の様子がただ事で無いことに気がついていた。
朝陽の姿を追う優美の目に、まるで元気がない。

優美はイスにもたれかかる様に力無く座っている。
背もたれが無かったらそのまま倒れてしまいそうだ。

キャンドルサービスが終わって照明が点くと、優美はまぶしそうに目を閉じた。

 


「優美」

 


優美は目を閉じたまま返事をしない。

 


「優美、おい優美!」

 


腕を揺さぶられてうっすら目を開けた優美は、英夫の顔を見て優しく微笑んだ。

 

 


「おい大丈夫か?しっかりしろ!すぐ病院行くぞ!」

 


「何言ってるの、もう少しでしょ。
最後まで見届けようよ、二人で… ねっ」

 


優美はそう言うと軽く目を閉じた。
よほど苦しいのか、口をきっと固く結んでいる。

そのとき、場内に司会者の張りの有る声が響いた。

 


「それでは、新郎新婦よりご両親へ花束の贈呈でございます」

 

 

 

その声に場内の照明がふっと消えて、英夫達のテーブルにスポットライトがあてられた。
壁際に立っていたマネージャーが英夫と優美を花道の正面に案内する。

優美は一人で立ち上がるのもつらいようだ。
英夫に抱えられる様にしてやっと歩いていたが、もう気力だけで立っているようだ。

耳元で英夫がささやく。
「優美、すぐ病院に連れていってやるからな。
もうちょっと我慢しろ。すぐだから・・・」

優美は声を出すのもつらいのか、英夫の言葉に小さく頷いただけだった。

正面からスポットライトに照らされて直志と朝陽が歩いてくる。
優美は朝陽に気を使わせない様に、ニッコリと微笑んだ。

新郎の直志が優美に花束を手渡す。
英夫が横から支える様にして二人で花束を受け取った。

「朝陽の事、頼んだぞ。絶対に幸せにしろよ」
「はい、約束します」

さすが朝陽が選んだ男だけの事はある。
英夫の目をまっすぐに見て答えたその言葉に、きっと嘘は無いだろう。

花束贈呈が終わり、拍手が鳴りやむのを待って司会の男が口を開いた。

 


「それではここで新婦よりご両親へのお礼の言葉でございます」

 


場内が静まりかえり、朝陽と英夫達にスポットライトがあてられた。
朝陽はマネージャーから手紙を受け取ると静かに、しっかりとした口調で読み始めた。 

 

 

 

 

 

「お父さん、今まで育ててくれてありがとう。
仕事をしながら男手ひとつで私を育てるのはとても大変だったでしょう。

 
後から知ったことだけど、お父さんは私を育てるためにホテルのシェフを辞めて、家の近くのレストランに仕事を変えてくれたんですね。

 
私を産んでくれたお母さんは、その時に亡くなってしまっていて私は写真でしかお母さんを知りません。
でも、お父さんのお嫁さんになった人だから、きっと優しくて面倒見のよい人だったと思います。

 
お父さんはいつも私に言ってたね ”お母さんは命をかけてお前を産んでくれたんだ。
俺達二人暮らしだけどお母さんの分まで生きような。
絶対幸せな人生を送ろうな”って。

 
私はお父さんとお母さんの子供で本当に良かった。
お父さんとの二人三脚の生活も漫画みたいで本当に楽しかったよ。
お父さん、大好きです。
そしてとても尊敬しています。
いつまでも元気でいてくださいね。

 
ビール飲みすぎちゃだめだよ。
大好きなお父さんへ」

朝陽はいったんそこで言葉を切ると、流れ落ちた涙をそっとぬぐった。
場内からすすり泣きの声が聞こえてくる。 

 

 

 

英夫は朝陽の言葉を聞きながら、二人で歩んできた人生を思い返して涙ぐんでいた。


その時、優美の足ががくっと崩れ落ちそうになって、英夫は慌てて優美の体をしっかりと支え直した。

 

 
「大丈夫か?もういいだろ、すぐ病院にいこう」
 

 
優美がかすれた声でささやく。

 

 
「朝陽の・・ 言葉  全部聞いてから・・」

 

 
その声は、もう完全にろれつが回っていない。

「おいっ 優美・・・」
優美は完全に英夫に体を預けている。

 

 
「優美、おいっ優美」
 

 
優美は人形の様に立ったまま返事をしない。
腰に手をまわして優美の体を支えている英夫の手に、良くない感触が伝わってくる。

朝陽はそんな異変に全く気が付いていない。


恥ずかしそうに視線を落としたまま、優美の方へ体を向けると手紙を読み始めた。

朝陽はちょっと照れながら、しかしはっきりとした口調で確かにこう言った。

 

 

  「お母さん」

 

 

 
英夫が優美の耳元でささやく。

「聞いたか優美。
朝陽のやつ、お母さんって言ったぞ!」
 

 
しかし優美はまるで人形の様に目を閉じたまま、顔色ひとつ変えず返事もしなかった。
 

 
「おい優美・・・ 優美・・・」

朝陽は視線を落としたまま手紙を読み続けている。

 

 

 

 

「お母さん、今までありがとう。

初めてだね、優美ちゃんの事お母さんって呼ぶの。ちょっと照れちゃうな。

 
お母さんは私が小さい頃から良く面倒みてくれてたね。
私にとって優美ちゃんは幼なじみの友達のようで、お父さんと優美ちゃんが結婚しても優美ちゃんは優美ちゃんだった。

 
お母さん、私がちっちゃい頃の事って覚えてるかな?
私がわがまま言うと、ちゃんと本気で怒ってくれたよね。
私の中で優美ちゃんは、ずっと大切な友達で、優しいお姉さんで、そして頼りになるお母さんです。

 
でも優美ちゃんとの思い出が有りすぎて、お母さんって呼ぶのが恥ずかしかった。

今、自分が結婚することになって、お父さんとお母さんのやさしさ、大変さ、大切さがわかります。
お父さん、お母さんと私の三人で過ごした日々はとっても大切な思い出だよ。

私もがんばって楽しい家庭を作るね。
きっと出来ると思うよ。

 
だって、素敵なお母さんのお手本が二人もいるんだから。
結婚してすぐ子持ちになってしまったお母さん。

 
これからは少しゆっくりと、お父さんと楽しく暮らしてくださいね。
いつまでも元気でいてね。
大好きなお母さんへ

        朝陽」

 

 

 

 

 

英夫は朝陽の言葉を真剣に聞いていた。
優美のかわりに一言も聞き漏らすまいと・・・

手紙を読み終わった朝陽が顔をあげて、恥ずかしそうに優美を見た。


「お母さん・・」

ちょっと照れた顔で優美に歩み寄る。

しかし、笑顔で迎えてくれるはずの優美は目を閉じたまま動く気配がない。

 

 
「お母さん?」
 

 
朝陽が異変を感じて優美の腕にふれると、その異様な冷たさにビクっとして思わず手を引っ込めた。


「やだ、お母さん どうしたの? お母さん・・」
 


朝陽がすがる様な視線を英夫にむける。
英夫はその視線に耐えられなくて、思わず顔をそむけた。

その英夫の表情が、優美に良くない事が起こっている事を物語っている。


朝陽が優美に抱きつくと、英夫に支えられてかろうじて立っていた優美の体がガクンと崩れ落ちる。

「お母さん、お母さんっ」

朝陽が優美の頬を両手で挟んで必死に呼びかける。


 「おかあさーんっ」


朝陽は力を失っている優美の体を支えきれずに、そのまま一緒に床に倒れ込んでしまった。  

 

 

 

式場のマネージャーは優美の異変に気付いていた。
すぐに入場口を開け、会場の外へ待機させていた救急隊員を呼び入れる。

式場内は騒然としていた。
皆、何が起こったかわかっていない。
ただ、飛び込んできた救急隊員の姿を見てあちこちで悲鳴があがった。

救急隊員は冷静に、しかし手早く優美を担架に乗せると表に用意していたストレッチャーに乗せる。

朝陽が走り寄って優美の体にすがりつく。
 

 
「やだよ もう、お母さんを失うのはやだよ・・」
 

 
ホテルの入り口に横付けにされていた救急車は優美達を吸い込むと、けたたましいサイレンの音を残して走り去って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

ー朝陽の結婚式から3年後ー


朝陽はベランダに出ると、初夏の新鮮な空気を思いきりすいこんだ。

「いい天気ね気持ちいい。
さすが晴れ女の朝陽ちゃんだね」

梅雨に入ってからこんなに気持ちの良い晴れ間を見るのは久しぶりだ。
すぐ横で二人の勇敢な兵士が風に揺られている。

「ツインズ、良くやった。
君達の栄誉を讃えてあとで漂白してあげよう」

特大のバスタオルで作られたてるてる坊主は、二人並んで晴れやかな笑顔を見せている。


部屋に戻った朝陽はベッドルームに入っていった。

「あら、起きてたの!」

ベビーベッドの中の赤ちゃんは、母親の顔を見つけて花が咲いた様に笑った。
まだ3ケ月くらいだろうか。
二重まぶたの愛くるしい目と、ちょっといたずらっぽい口元が朝陽に良く似ている。

朝陽は赤ちゃんを優しく抱き上げるとリビングの方へ歩き出した。
開け放った窓から初夏の気持ちの良い風が優しく吹き込んでくる。

 

 

「気持ちいいでしょう。
今日は初めてのおでかけだね」

 
朝陽の言葉が分かるのか、赤ちゃんは嬉しそうに笑った。

「あなたもやっと外に出られる様になったからね。
おばあちゃんに会いに行こうね」

今日は母親の命日だ。
朝陽はお墓参りをかねて赤ちゃんを見せに行く事にした。

朝陽はいったん赤ちゃんをベビーベッドに戻すと出かけるための準備を始めた。
赤ちゃんを連れて出かけるのは大変だ。

 
紙おむつ、哺乳ビン、おしり拭き、タオルにガーゼ・・

「よし準備完了!」

朝陽は手際良く荷物をまとめると、赤ちゃんを抱き上げて玄関に置いてあるベビーカーにそっと座らせた。
ヒザの上に大きめのタオルをたたんでかける。

「さぁ、おばあちゃんに会いに行こう!」

 
朝陽は初夏の日差しを避ける様に、日影を通りながら駅へと向かった。

お母さんの眠る墓地までは電車で30分ほど。
電車に乗ってあいた席を見つけると、ベビーカーをたたんで赤ちゃんをだっこする。

朝陽の腕のなかで小さな命は気持ち良さそうに寝息をたてている。
その安らかな寝顔を見ているうちに、子育ての疲れからか朝陽も浅い眠りに落ちていった。 

 

 

 

遠くのほうで駅員のアナウンスが聞こえる。

(どこだろう・・ ここ)

 

 
ふと、目を開けると朝陽が降りる駅のひとつ前の駅だった。


(あっぶない、寝過ごすところだった)

小さな命は腕の中でまだ静かな寝息をたてている。
その天使の様な柔らかい髪の毛を撫でているうちに電車は目的地へと着いた。

次の駅で電車を降りると、朝陽はベビーカーを押しながら墓地へと向かった。
ここからは歩いて15分ほどだ。

舗装されていない道にベビーカーが揺られて赤ちゃんが目を開けた。
初めて見る景色に興奮しているのか「あ~ う~」と声をあげている。



平日の朝のせいか墓地のなかに人影は無く、シンと静まりかえっている。

(これだけ静かだと、お母さんも熟睡してそうね)

朝陽はお墓の前まで来ると、ベビーカーをまっすぐにお母さんに向けた。
そして、その横にしゃがむと手を合わせて母親に語りかけた。 

 

 

 

(お母さん、久しぶりだね。
私もやっとお母さんになれたよ。

 
この子はね、今日が初めての外出なの。
可愛いでしょ。
あっ、まだ名前言ってなかったね。

 
この子の名前はね ”優陽”。


優しい太陽で優陽。
いい名前でしょ。

 
お母さんの優と私の陽をとってつけたんだ。
きっと明るくて優しい人になるよ)


朝陽が母親と話していると、突然静かな霊園に英夫の声が響いた。

「おーい、朝陽!」

朝陽が立ち上がって声のした方へ顔を向けると英夫達が手を振っている。

「お父さん、お母さん」
朝陽が手を振りながら応えた。



仲良く手をつないで歩いて来たのは・・・

 

 

英夫と優美。

 

 

 

 

 

 

 

 

ー3年前 朝陽の結婚式ー



意識を無くした優美を乗せた救急車は、ホテルから車で5分ほどの大学病院へすいこまれて行った。

待ちかまえていたスタッフが担架ごと優美をストレッチャーに移すと手術室へ運んで行く。

この病院の外科部長は脳外科の権威で有り、ホテルの医師の先輩でも有る。
後輩の医師から連絡を受けていた外科部長は、自分が執刀する段取りを整えていた。

救急隊員から逐一入ってくる情報をもとに必要な機器は全て用意してある。

開頭してみなければ分からないが、転移していなければ完治させる自信は有った。

手術室に運ばれてきた優美をこの病院で最高の技術を持つスタッフが取り囲む。


手術中のランプが点灯し、優美と癌との戦いが始まった。




英夫は手術室の前を何度も往復していた。
立ち止まると良くない事が起こりそうで不安でしょうがない。
 

 
優子を失った時の事が英夫の脳裏をよぎる。
英夫は自分を責めていた。

(なんでもっと早く連れて来なかったんだ・・・ 強引にでも連れて来るべきだった。
優美にもしもの事が有ったら俺のせいだ・・・)

 

 

 

朝陽は放心した様にイスに座ったまま身動きひとつしない。
涙も枯れ果てたのか、真っ赤に充血した目でじっと壁を見つめている。

ウエディングドレス姿でイスに座っている朝陽を通りすがる人々がジロジロ見ていく。
見かねた英夫が声をかけた。

「朝陽、お前着替えてきたらどうだ。まだ時間かかりそうだぞ」
英夫の言葉に朝陽は小さく首を横にふった。

 

 
「ここにいる・・・」



手術が始まってからすでに7時間を超えている。
 

 
手術中のランプがフッと消えた時、英夫と朝陽はこの時を待っていたのか、この時が来て欲しく無かったのかわからなかった。
 

 
ドアが開いて医師達が出てくる。
英夫と朝陽は駆け寄ると祈る様な気持ちで聞いた。
 

 

 
「先生・・・」


「手術は一応成功です。
病巣は全て取り除きました。
ただ相当体力を消耗しているので、しばらく集中治療室で治療を続けます。
助かるかどうかは、はっきり言って五分五分です」

その時、手術室から優美の乗ったストレッチャーが運ばれてきた。
 

 
「お母さんっ」
 

 
駆け寄った朝陽を看護婦が優しく制した。

 

「麻酔で眠っています。術後なのですぐに集中治療室へ行かないと」

優美への思いがこみあげてきた朝陽が子供の様に泣きじゃくった。

 

 

「お母さん、お母さん   死んじゃやだよ・・・

 もうお母さんを失うのはやだよ・・・
返事してよ・・ ねえ お母さん・・  お母さんっ!」

泣きじゃくる朝陽に一礼をして、集中治療室へ向おうとした看護婦が動きを止めた。
その表情が驚きに満ちている。

「まさか、そんな・・・  先生、見て下さい!」

執刀した医師が優美の顔を覗き込む。


7時間の大手術を終え全身麻酔で眠っているはずの優美の目から、大粒の涙がひと粒、すーっと流れおちていた。

 

 
その表情が手術前と一変している。

 

 
あれほど苦痛の表情を浮かべていた優美の顔が、今は間違いなく微笑んでいる。

その穏やかな表情を見た医師が小さな声で呟いた。

 


「これは・・・ 助かるぞ」
 

 

医師の考えは当たっていた。
優美は順調に回復を続け、丹念な検査にも転移の様子は全く見られなかった。

 
英夫と朝陽の献身的な看護と、優美の生きたいという強い気持ちが癌を克服したのだろう。 

 
手術から4ヶ月後、優美は無事に退院した。

 

 

 

エピローグへ続く・・・