弁当が出来上がると最大の難関”親父起こし”が待っている。

英夫の布団を一気に引きはがすと「起きろー!」と怒鳴った。
いつもなら「あと5分・・」などと食い下がる英夫が、今日はパッチリと目を開けている。

「あれっ、お父さんどうしたの?起きてたの?」

 
「いや・・ 寝てない・・・」

英夫はジェットコースターの事を考えるとなかなか寝付けなかった。

(朝陽には悪いが、いっそ雨でも降って遊園地が中止になってくれたらいいのに・・・
そしたら水族館でも行って、美味い物食べて・・・)

そんな事を考えている内に夜が明けてしまったのだ。

英夫が最後の望みをかけてリビングに向かう。
そこで待っていたのは雲ひとつない真っ青な空と、英夫の気持ちをあざ笑うかの様な特大のてるてる坊主だった。

(終わった・・・)

てるてる坊主は風に揺られて英夫に話しかけている様に見える。

(可愛い娘のためなんだから、楽しんできなよ)

(そうだな、朝陽を楽しませるためだもんな よし行こう!)

英夫はやっと笑顔になって言った。

「朝陽、遊園地行くぞー」

 

 

二人は連れだって家を出ると駅へ向かった。
平日とはいえ、冬休み初日の車内は家族連れで結構混んでいる。

途中の駅で優美が乗りこんで来る。
朝陽と優美はパンフレットを見ながら、どの乗り物に乗るかキャーキャー騒いでいる。
朝陽はもちろんだが優美も楽しそうだ。


遊園地直通のこの電車は、途中で人が降りる事はほとんど無く終点のホームへとすべりこんでいった。

改札を出るとすぐ正面が遊園地の入場口だ。
電車から掃き出された人々がもれなく遊園地に吸い込まれていく。

「早くいこうよ!」
朝陽が優美の手を引っ張って走り出す。
英夫はそんな楽しそうな朝陽を見て、連れてきて本当に良かったと思った。

 


だが朝陽を眺めて微笑んでいた英夫の顔が凍りつくまでに1分もかからなかった。
英夫の目に飛び込んできたのは・・・


 ”コブラツイスト”

 


実際に見るそれは英夫の想像をはるかに超えていた。

まさに垂直落下!
これこそが世界最強!

キャッチコピーが英夫の脳裏をよぎる。

 

 
人間やめますか・・・


(やめちゃおっかな・・・ 人間)

 

 

英夫のそんな思いをよそに、朝陽と優美はコブラツイストに向かって駆け出して行く。

「お父さん、早く!」
「英夫、急いでよ!ほらもうあんなに並んでるよ」

開園直後だというのにコブラツイストには長蛇の列が出来ていた。

 

 
すでに90分待ち。 

 

 

列の最後尾に並んだ三人は、目の前にそびえ立つ鉄塔を見上げながら今日の予定を決める事にした。

「これに乗ったら次パイレーツね。その後お化け屋敷行って・・・」
「いいわね、お化け屋敷!ここのめちゃくちゃ怖いらしいよ」

 


「なぁ、そろそろ弁当食べないか・・・」

 


「お化け屋敷の後、またこれに乗ろうよ!」
「乗る乗る!ねぇ、両手放しちゃう!?」

 


「ソフトクリームもいいよな・・・」

 


「バンジーも出来るんだって」
「キャー、やっちゃう?」

 


「フランクフルトでも買ってこようか・・・」

 


「ちょっと、お父さん!」
「英夫!」

「はい」

「ここは遊園地だよ!乗り物に乗るところなの!」
「現実逃避するな!」


と、その時朝陽がコブラツイストを指さして言った。
「見て見て、上がっていくよ」

コブラツイストが全員の視線をひとりじめにしながら、ゆっくり、ゆっくりと上がっていく。

頂上についたコブラツイストは一瞬、止まったかに見えた。

そして次の瞬間、地上に向かって墜落する飛行機の様に真っ逆さまに落ちていった。
それはまさに”落ちる”としか表現の仕様がない角度だ。

普通ここで乗っている人達の悲鳴や歓声が聞こえるはずだが、コブラツイストはそれを許さなかった。


皆、無言で必死にしがみついているだけだ。

 

 

轟音を残してコブラツイストが見えなくなると、優美はハッとして英夫を見た。

 (失神してるかも・・・)

しかし英夫は顔面蒼白になりながらも、なんとか立っていた。

「英夫、大丈夫?」

英夫は小さな声でなにやらブツブツ言っているが返事をしない。
良く聞いてみると「ににんが4、にさんが6、にしが8・・・」


凄いスピードで九九をつぶやいている。

「英夫、
ねぇ英夫!」

優美の声にやっと英夫が我に返った。

「ん、どうした?」
「どうしたじゃないでしょ。なんで九九なのよ?」
「いや失神を防ぐにはこれが一番いいってガチャに聞いたんだよ」


後ろに並んでいるカップルがクスクス笑っている。

列は少しづつ、だが確実に三人をコブラツイストへと運んでいった。

そしてついに三人は乗り場の目の前まで来た。
すぐ横に注意事項が書かれた看板が有る。

 

「身長制限 120cm未満の方はご乗車出来ません」

「120cmだって、良かったね朝陽」
「うん、ここまで来て乗れなかったらつまんないもんね」

優美はふとイヤな予感がして英夫を見ると「やっぱり・・・」とつぶやいた。

「英夫、恥ずかしいからやめなさい!往生際悪いわよ!」


英夫は何食わぬ顔で思いっきりヒザを曲げていた・・・

 

 
そして、ついに英夫達の順番が来た。
英夫が乗車口の脇に立つ係りの女の子相手に、最後の悪あがきをしている。

「これって本当に大丈夫?落ちたりしない?」
「安全性は確認されております」

「絶対、大丈夫?」
「安全点検は充分にしておりますので」

「俺、虫歯が有るんだけど・・・」
「大丈夫です」

「この前、深づめしちゃってさ・・・」
「関係ありません」

「右ききなんだけど・・・」
「それも関係ありません」

「俺コックなんだけど・・」
「知ったこっちゃ有りません」

後ろに並んでいるカップルが、いいかげんイライラしている。
「おじさん乗るの、乗らないの!」

優美は恥ずかしくなって「ごめんね、先に乗って」と順番を譲る事にした。

 

 

 

「ちょっと英夫やめてよ。次は乗るからね!」
「そうよお父さん、恥ずかしいじゃない!」

「わかったよ、そんなに怒るなよ…」

「ま、いっか。おかげで1番前になったから」

英夫は状況が全くわかっていない。
そして順番が来たとき、朝陽に手をひかれて1番前の席に座らされていた。


コブラツイストがゆっくりと動き出す。
カタン、カタンと不気味な音を残して空に向かって登っていく。


「朝陽、頼みが有る・・・」
英夫がかすれた声で言った。

「なに、お父さん?」

「手を握っててくれ。絶対放すなよ・・・」

朝陽が笑いながら英夫の手を握る。

コブラツイストがついに頂上についた。

次の瞬間・・・




英夫は目の前が真っ暗になった。

 

 

 

 

(・・ここ、どこだっけ?)

気が付くと英夫はベッドに横たわっていた。
ゆっくりと顔を動かして周りを見回してみる。

ぼんやりとした英夫の目に朝陽と優美の顔が映った。
「お前たち何してるの、こんなところで?」
「覚えてないの?お父さん一瞬で旅立ったじゃない!」

(そうだった… コブラツイストに乗って、それから…)
英夫の脳裏に恐怖の瞬間がよみがえって、思わずブルっと体を震わせる。

朝陽は笑いながら「お父さん休んでなよ。優美ちゃんと遊んでくるから」と言った。

「英夫、動ける様になったら電話してね。よし朝陽、お化け屋敷いくぞ。ついてこい!」
「ラジャー!」

二人が仲の良い姉妹の様に医務室を飛び出して行く。

(優美に来てもらってよかったな)

英夫は少し休んで元気を取り戻すと遊園地に戻って行った。

冬晴れの遊園地はどのアトラクションも家族連れで賑わっている。
ふと、英夫は電車の吊り広告の楽しそうな家族を思い出した。

(ヤバイ、まだ負けてる)

英夫は急いでお化け屋敷に向かうと、出口の所で二人が出てくるのを待った。

出口からは次々にカップルやファミリーが出て来るが、いつまでたっても朝陽たちは出て来ない。

(そうだ、電話くれって言ってたな)

英夫は携帯を取り出して優美に電話してみたがつながらない。

(まだお化け屋敷の中かな)

英夫はちょっと考えると、勇気を出してお化け屋敷の中に入っていった。

廃屋の病院をリアルに再現したこのお化け屋敷は、コブラツイストと並んで失神者が多い事で知られている。

 

 

20分後・・

出口から英男が両耳を手でふさぎながら飛び出してきた。
かろうじて失神はしなかった様だが、顔は真っ青で目に涙を浮かべている。

英夫はガタガタ震える手で携帯を取り出すと優美に電話した。
しかし聞こえてくるのは機械的な声のアナウンスだけ。

(あいつらどこいったんだ・・)

英夫は怖くて寂しくてどうしたらいいか分からなくなってきた。
この広大な遊園地の中ではぐれてしまったら二度と会える気がしない。

その時、英夫に名案がひらめいた。

(俺って頭いいな!)

英夫は自分のアイデアに満足して歩き出した。




その頃、朝陽たちは英夫の事などすっかり忘れて遊園地を楽しんでいた。

「朝陽、次バイキング乗ろうよ!」
「キャー、乗る乗る」

バイキングに向かって歩き出した二人の耳に飛び込んできたアナウンスの声。

 


「お客様に迷子のお呼びだしを申し上げます。
村上朝陽様、英夫君をお預かりしています。
いらっしゃいましたら迷子センターまでお越し下さいませ。
繰り返し申し上
げます・・」

朝陽と優美は思わず顔を見合わせるとプッと吹き出した。

「いっけない忘れてた!」
「迎えにいこっか、英夫君」

二人は手をつないで英夫君が待つ迷子センターへ向かった。

センターの待合室で何人かの迷子にまじって英夫君がちょこんとイスに座っている。

 

 

「ごめんね英夫、すっかり忘れてたよ。電話してくれれば良かったのに」
「何回も電話したけどつながらねえんだよ、お前の携帯」

「えっ?」

優美は携帯を取りだしてみた。

「あれっ、電池切れだ。ごめんごめん」
優美がぺろっと舌を出して謝る。

「お父さんお腹空かない?お弁当食べようよ」
「そうだな、泣き疲れて腹ぺこだ」

三人は迷子センターを出ると近くのベンチに座った。

朝陽がリュックからお弁当を出すと、優美が歓声をあげた。


「すごーい!これ朝陽が作ったの?」
「うん!いっぱい食べてね」

「俺、コーヒー買ってくるよ。朝陽はジュースな」
「ありがとう、お父さん」

朝陽が両手におにぎりを持ってパクつきながら優美の顔をのぞきこんだ。

「優美ちゃん今日ありがとうね。すっごく楽しいよ」
「私も楽しいよ。こんなにはしゃいだの久しぶり。また、三人で来ようね」
「うん!いつも三人一緒だったらもっと楽しいのにね」

「そうだね」
優美が微笑みながら朝陽の頭をなでた。

朝陽はおにぎりを食べながら、優美の横顔を見つめている。




「優美ちゃん・・・ お父さんのこと好き?」

「えっ・・? うん好きだよ。朝陽と同じくらいにね」

「やったぁ!お父さんも優美ちゃんのこと絶対好きだよ。ねえ、結婚すればいいのに」

優美が声をあげて笑う。

 

 

「ストレートだね、朝陽。そんな簡単にいかないよ」

その時、向こうからコーヒーをかかえた英夫が帰って来るのが見えた。

「朝陽、今の話英夫には内緒だよ」
優美がウィンクすると
「ラジャー!」
朝陽が敬礼で返した。


「なぁ、向こうの方にメリーゴーランドがあったぞ。ご飯食べたらみんなで乗ろうぜ、なっ」
「いいけど、あれで失神したら放置するからね」

「あれなら大丈夫! ・・・だと思う」

英夫の情けない顔に朝陽と優美は思わず笑いだした。



この後は英夫も失神する事なく、久しぶりに楽しいひとときを過ごすことが出来た。
閉園時間いっぱいまで遊んだ三人は、朝陽を真ん中に仲良く手をつないで遊園地を後にした。

興奮してはしゃいでいた朝陽もよほど疲れたのだろう、電車に乗るとすぐに眠ってしまった。


「朝陽、寝ちゃったね」
「一日中遊びまくってたからな。優美、今日はありがとうな」

「私も楽しんだから大丈夫だよ。可愛いね朝陽」

優美が朝陽の髪を優しくなでながら言った。

 

 

電車は20分ほどで優美の降りる駅に着く。

「家まで一緒に行こうか?」
「大丈夫だよ、朝陽はおぶっていくから。気をつけて帰れよ」
「うん、わかった。じゃあまたね」
「あぁ、今日はありがとう。おやすみ」

英夫は朝陽の肩を抱きなおして片手をあげた。



英夫達の降りる駅が近付いてきても朝陽は起きる気配がない。

(よっぽど疲れたんだろうな)

英夫は朝陽を起こさない様に、そっとおんぶすると電車を降りた。

商店街の店はほとんど閉まっていたが、1軒だけ24時間営業のスーパーがあいている。
その前を通りかかった時、朝陽が突然声をあげた。

「お父さん、ストップ!」

英夫がびっくりして足を止める。

 
「なんだお前、起きてたのか?」

 
朝陽はそれには答えずにスーパーの中へ飛び込んでいった。

しばらくして出てきた朝陽はトイレットペーパーを2つかかえている。


「いつもより20円安かったから」

「お前らしいな」
英夫が声をあげて笑う。

「はい、じゃあお父さんしゃがんで」
「なんで?」
「家までおんぶしてくれるんでしょ?」

「なんだよ、起きてるんなら・・・  まっ、いいか」

しゃがんだ英夫の背中に朝陽がうれしそうにしがみつく。
英夫は立ち上がると家に向かってゆっくりと歩き出した。

「お父さん」
「なんだ?」
「今日はありがとうね。とっても、とっても楽しかったよ」


「朝陽」
「なに?」


「こちらこそ、いつもありがとうな」

夜遅い商店街に人気は無く、英夫の足音だけがコツコツと響いていた。

 

 

 

 

年が明けると3学期。

去年キッチンデビューを果たした朝陽の修行も、日を追うごとに本格的なものになっていた。

まだ火を使う事は許され無かったが、簡単な前菜やサラダなどのコールド場はまかされている。
店でも元気の良い朝陽の評判は良く、マスコット的な存在になっていた。


そんなある日の事・・・

いつもの様に学校帰りの朝陽が店に飛び込んできた。
「お早うございまーす」

「お早う、朝陽ちゃん」
「お早う、今日も元気だね」
店のみんなが挨拶をかえしてくれる。

朝陽はコックコートに着替えるとキッチンに入っていった。

英夫とガチャがテキパキと仕込みをすすめている。
その手際の良さに圧倒されながら、朝陽は英夫に声をかけた。

 


「シェフ、今日新しい料理を考えてきたんですが、試食してもらっていいですか?」

「前菜か?」

「はい、タコのカルパッチョ・春野菜のソースです」

 


「カルパッチョか・・・」


英夫はちょっと考えたあと「よし作ってみろ」と言った。

「ありがとうございます!」
朝陽はランドセルから食材を取りだしてすぐに仕込みにとりかかった。

 

 

赤と黄色のパプリカ、ズッキーニ、プチトマトは生のまま。

グリーンアスパラ、菜の花はさっと茹でて5mmの角切りにする。

シチリアの海塩とホワイトペッパーで味をつけて、シェリーヴィネガーとバージンオイルでソースを作る。

ボイルしたタコは薄く斜めにそぎ切りにして皿に綺麗に並べていく。
もちろん皿は冷たく冷やして有る。

タコの上から春野菜のソースをスプーンで回しかけて、香りづけにシチリアのバージンオイルをふる。

イタリアンパセリ、セルフィーユ、ディルをかざって出来上がり。

朝陽が自信たっぷりに皿を差し出す。

 

「シェフ、出来ました!」


英夫は朝陽が作る様子をずっと見ていた。
盛りつけの綺麗さは申し分ない。
ソースもきちんと乳化している。


だが・・・


「よし、みんなに食べてもらえ。
おい、みんな試食だ。感想を正直に言えよ」
その声に店のみんなが集まってくる。

試食後、最初に声を出したのは真由だ。

「うん、おいしいよ。朝陽ちゃん、やるじゃない」
「良く出来てると思うよ、おいしいね」
そう言ったのはガチャ。

英夫は料理には手を付けずに口を開いた。

「ガチャ、本当に良く出来てるか?朝陽のためだ、正直に言え」

「だけど、シェフ・・・」
「なら俺が言うぞ」

英夫は朝陽を真っ直ぐに見て言った。

 

 

 

 

「朝陽よく聞けよ。

ベネチアにハリーズ・バーというレストランが有る。
バーという名が付いているがしっかりした料理を出す名店だ。
この店の常連の老婆が有るときこんな事を言った。

”私は生肉が大好きなんだけど歯が悪くなってもう食べられなくてね・・・
もう一度だけでいいから美味しい生肉を食べたいね”

それを聞いたその店のシェフは、なんとかして老婆に生肉を食べさせてあげようと考えた。


そこで少し厚めに切った生肉を肉叩きで叩いて薄くする方法を思いついた。
こうすると肉の繊維が切れて、歯の悪い人でも簡単に噛み切れる様になる。

ただ薄く切ったのでは繊維が残って噛み切れないんだ。


その料理を食べた老婆は感動して、シェフにこの料理名を聞いた。
ところがシェフは老婆を喜ばせたくて作っただけで、料理名なんか考えていなかったんだ。

その時ふと思いついたのが、その頃話題になっていたカラバッジオの絵だ。


彼が絵に使う生々しい血の色が生肉の色とだぶって、とっさに”これは牛肉のカルパッチョです”とカラバッジオの名前をもじって答えた。

これがカルパッチョの由来だ」

 

 


英夫はそこでいったん言葉をきると、朝陽が作った料理を指さして言った。

 


「いいか、カルパッチョの料理の神髄は繊維を壊して食べやすくした所に有る。
決して、ただ薄く切ったものの事ではない。


お客様の事を考え、美味しく食べてもらう事だけを考えて生み出された料理の名を名乗るなら、その神髄だけははずすな。
お前が作ったのはただのタコの薄切りだ。
カルパッチョでは無い」


朝陽は英夫の言葉を一言も聞き漏らすまいと真剣に聞いている。
英夫はそんな真剣な朝陽を見ながらやさしい口調で続けた。

「いいか朝陽、この料理ソースの味は悪くない。彩りもきれいだ。
もう一度作り直してみろ」

「はい、シェフ。ありがとうございました!」
朝陽が深々と頭を下げる。
英夫はそのままキッチンに戻って、黙々と仕込みの続きを始めた。

「朝陽ちゃん良かったね、がんばれよ」
ガチャがそっと声をかける。
「ソースの味は本当に美味しかったよ、がんばってね」
真由が朝陽にウインクする。

「みんな、ありがとう」

朝陽は真剣に料理に取り組むこの店のスタッフが大好きだった。

 

 

 

朝陽はこの事が有って以来、よりいっそう料理の世界にのめり込んでいった。
なんとかタコのカルパッチョを完成させたかったが、家事をこなし、学校へ行き、店ではやらなければならない仕事もたくさん有る。

あっという間に春休みになってしまった。

4月からは朝陽も中学生になる。
それまでに完成させよう、そう決心した朝陽は英夫が持っているイタリア語の料理本を借りる事にした。



辞書を片手に必死に勉強していると、ついにタコの調理法について書いてある部分を見つけた。

イタリア語のレシピを訳すのは大変だが、出来上がる料理をイメージすると楽しくなってくる。



数日後・・・

店に入ってきた朝陽は真っ直ぐキッチンに向かうと、仕込みをしている英夫に言った。

「シェフ、タコのカルパッチョの試食お願いします」

「わかった」

朝陽は食材を用意すると、まずソース作りに取りかかった。
ここまでは前回と同じ。

次に取りだしたのは茹でたタコでは無く、生のタコ。
充分に塩揉みした生のタコをボールに入れ、ドライジンを加えてもみ洗いをする。
これは生タコの臭み取りの基本だ。

その後、足を切り分けるとビール瓶を持ってきてタコをガンガン叩いた。
こうする事でタコの繊維が切れて柔らかくなるのだ。

充分叩いて柔らかくなったタコを薄切りにして皿に並べ春野菜のソースをかける。
仕上げはもちろんシチリアのバージンオイル。

 

 

 

「出来ました。試食お願いします!」

 

 


朝陽が声をかけると、今回は英夫が真っ先に手を伸ばした。
店のみんなが英夫の様子をじっと見つめている。

英夫はじっくりと味を確かめると、何も言わずに店を出ていった。


「あれっ、今回は大丈夫だと思ったんだけど・・・」
ガチャの顔は意外そうだ。



しばらくして戻ってきた英夫は真由に「夜のおすすめ、確認しとけよ」と言った。

「えっ?」

店の外へ出て入り口脇に立てて有る黒板を見た真由が「朝陽ちゃん、来て!」と弾んだ声で朝陽を呼ぶ。
朝陽が店の外へ出てみると黒板の1番上に見慣れた英夫の字が有った。




 ~本日のおすすめ~

【とてもとても柔らかい
 生タコのカルパッチョ
    春野菜ソース 】


その字を見た朝陽の目から涙がこぼれでる。

(お父さん、ありがとう)

店の中に戻ると、英夫は黙々と仕込みを続けていた。

 

 

 

 

ー4月7日 朝陽の入学式ー

今年の冬は寒さが厳しく、3月になっても雪の舞う日があったほどだ。


春の訪れが遅かったせいか、桜の花もこの日やっと満開を迎えていた。
真っ青に晴れわたった空と満開の桜が、街のあちこちで見事なコントラストを見せている。

いつもより早めに目をさました朝陽は、カーテンを開けると外の空気を思いっきりすいこんだ。

窓辺には例によってバスタオルで作った、特大のてるてる坊主がぶら下がっている。

「いい天気、やったね!」
朝陽は風に揺られて微笑んでいるてるてる坊主に向かって敬礼した。

「良くやった2号。君は完璧に任務を遂行した。
ご褒美に今日はぬるま湯で手洗いしてあげよう」

朝陽は忠実な部下を褒めたたえると、問題児を起こしにいった。


「お父さん、起きて!」
そう言いながら一気に布団をまくると英夫の姿は無く、変わりに特大のイルカの抱き枕が横たわっていた。


(変わり身の術か・・・やるな)


朝陽は英夫が隠れていそうな場所を考えた。

そして、何かに気付いた様にリビングに向かった。
いつもしっかり閉めてあるはずの押し入れの扉が少し空いている。

「木の葉を隠すには木の葉の中・・・」

朝陽は勢いよく押し入れの扉を開けた。

そこで朝陽が目にしたのは、特大のリラックマとトトロに挟まれてイビキをかいている英夫の姿だった。


「やっぱり・・・ 起きろーっ!」

朝陽の声に英夫がうっすら目を開ける。

 


「よくぞ見破ったな」
「だてに365日起こしてないわよ。観念しなさい」
「参りました」

 

 

恒例の朝の日課を済ませた二人は入学式に出かける準備を始めた。
英夫のスーツやネクタイは昨日のうちに朝陽が用意してある。

英夫が着替えていると、奥の部屋から制服に着替えた朝陽が出てきた。


「お父さん、どう?似合う?」
もともと母親に似て美人の朝陽は、制服を着ると急に大人になった様に見える。

 
「うん、似合ってるよ」

英夫は成長した朝陽を見て嬉しい様な、ちょっと寂しい様な複雑な気持ちになった。
朝陽が生まれてから二人三脚で過ごしてきた日々が、頭の中を駆け巡っていく。

(大きくなったなぁ・・)

英夫の目にじんわりと涙がにじんだ時、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろう、こんな朝早く?」

「優美ちゃんだよ、入学式に出てもらいたくてお願いしたの」
朝陽は走って玄関のドアを開けにいった。

「優美ちゃん、おはよう」
「わぁっ、朝陽可愛い!」
「優美ちゃんこそ、綺麗だねー」

朝陽がそう言うのも無理は無い。
うすいグレーのスーツにハイヒールをはいた優美は、その辺のモデルよりずっと綺麗だ。

普段、ざっくりとしたジーンズ姿を見慣れてる英夫は思わず見とれてしまった。



「お父さん、お父さん!」
「ん、何だ?」

「見とれすぎだよ!」

「違う!ちょっと考え事してただけだ」

「口がポカンと開いてたけど・・・」

「長めの深呼吸だ」

「二人ともいいかげんにしなさい。もう時間よ」
優美はそんな二人のやりとりを優しく見つめている。

 

 

家を出た三人は中学校へ向かって歩き出した。
歩いて5分ほどの距離だ。

途中で大きな国道を渡るのだが、ここで英夫の”国道渡り方教室”が始まってしまった。

「いいか、朝陽。
まず右を見て、つぎ左。
もう一度右を見て車が来なかったら手を上げて渡る。わかったな」

「では最初からいくぞ。
まず右を見て・・・ あれっ信号変わっちゃった」

「お父さん!私もう中学生だよ!」
「だってお前、小学校の時はこんな大きな道渡らなかっただろ?」
「英夫大丈夫だよ、朝陽はしっかりしてるから」

「いや、やっぱり心配だ。もし交通事故にでも遭ったら・・・ あっ青になった。
よしいくぞ、まず右見て、つぎ左。
もう一度右・・・ おいっ、置いていくな!」

朝陽と優美は英夫を無視して、さっさと横断歩道を渡っていった。
英夫が急いで後を追う。

その時、右折の車がスピードを落とさずに曲がってくると、クラクションを鳴らしながら英夫をかすめて走り去っていった。

タイヤのきしむ音に二人が振り向くと、ちょうど英夫がびっくりして尻もちをつくところだった。

「もう、一番危ないのはお父さんだよ」



国道を渡ると中学校はすぐそこだ。
正門の前では記念写真を撮る親子が順番待ちの列を作っている。
朝陽たちも列のうしろに並ぶ事にした。

「お父さん、おしり汚れてるよ」
朝陽がパンパンと音をたてて英夫のおしりを叩いた。

周りの人はくすくす笑っている。

 

 

やっと順番がきて写真を撮った三人は学校の中へ入っていった。
受付で名前をつげると、上級生が朝陽を教室に連れていってくれる。

英夫と優美はスリッパに履き替えて体育館の中へと入った。
まだ時間が有るというのに席はほとんど埋まっており、人の間からビデオカメラの三脚がにょきにょきとそびえたっている。

「なぁ優美、朝陽もついに中学生だよ。いろいろありがとうな」

「朝陽はまっすぐないい子に育ったよね。
英夫が頑張ったからだよ。
朝陽はね、英夫の事が大好きだよ」

「優美・・  ありがとう」


二人が話していると、入口から新一年生が入場してきた。
父兄達が笑顔と拍手で出迎える。

朝陽が胸を張って笑顔で歩いてくる。
そして英夫達を見つけると軽くウィンクしてみせた。

 

 

 

 

 

 

披露宴会場では友人達の挨拶が続いている。

「あの時のあなたの顔は傑作だったわよ、ねえ迷子の英夫君!」

「その話はやめろよ、せっかく忘れてたのに」



「・・・ありがとうございました。では続きまして、新婦のご友人による歌のプレゼントでございます。
歌詞をご存じの方はどうぞご一緒に歌ってください。
尚、ご友人からのお願いで手拍子ともみ手はご遠慮くださいますようお願いいたします。
40才以上の方は特にご注意くださいませ」

司会の男はそう言ってニッコリと笑った。

場内から笑いが起こる。

「あの司会者、場を盛り上げるのが旨いな」
「そうね、朝陽も嬉しそう」


朝陽の友人達が出てきて、ちょっと恥ずかしそうに歌い出す。

上手なのか下手なのかは微妙なところだが、誰が聞いても心がこもっている事がわかる歌声だ。

朝陽が友達に誘われて一緒に歌い出す。

優美はその目に全てを焼き付けようとでもするかの様に、じっと朝陽を見つめている。


英夫は優美の様子がずっと気になっていた。
元気そうに振る舞ってはいるが、ときおりフッとつらそうな表情を見せる。

「優美、体は大丈夫か?」
「平気よ、なんでもないわ」

「本当か?もし・・・」
「大丈夫だって!ねえ、それより貸し切りパーティーの事覚えてる?」

優美が朝陽から目を離さずに言った。

「忘れるわけ無いだろ!
あれは、朝陽の14才の誕生日だったよな・・・」

 

 

 

 

 

 

中学生になった朝陽はバスケ部に入部した。
店を手伝いにくるのは練習が終わってからなので、だいたい6時は過ぎる。

英夫は無理しない様に言ったのだが、朝陽はやりたい事は全てやらないと気がすまない性格だ。

週のうち5~6日は店に来ている。


「おはようございまーす」

この日、朝陽が店に入ったのは6時半を回っていた。
キッチンではガチャが凄いスピードで玉ねぎをみじん切りにしている。

「おはよう、朝陽ちゃん。学校はどう?」
「もう慣れたよ。友達もいっぱいできたし・・ すっごく楽しい!」

「そっか、良かったね。でも毎日ここに来て大丈夫?疲れない?」
「うん、大丈夫だよ。ガチャ君ありがとう」

朝陽はまずテキパキと洗い物を片付けた。

「今日、金曜だから混むかな?」
「席の予約が3件入ってるね。
7時に1件と7時半に2件。
忙しくなるから前菜の在庫だけ確認しといて」

「はい、わかりました」

朝陽はコールドテーブルの扉を開けると中の食材を全部出した。
前菜は最低でも10種類は用意しておく。

パスタやセコンド料理とかぶる食材は使えないからだ。

魚介のマリネ、鯛のスモーク、サーモンとホタテのタルタル、パルマ産生ハム、豚肉のリエット、鴨とレバーのパテ、川魚のカルピオーネ、野菜をたっぷり入れたフリッタータ、地鶏のガランティーヌetc

ひとつひとつ味と在庫を確認していく。

 

「ガチャ君、今日のセコンドの魚って何?」

「最初メバルが3人前、その後が鯛だね」
「じゃあ鯛の時は前菜に生タコのカルパッチョ出すから、春野菜ソースは使わないでね」

「オッケー、じゃあ鯛のグリルはバルサミコとジェノベーゼの2種ソースにするよ。あとは?」

「リエットの味が少し抜けてるから、出す時に岩塩を砕いて振ろうかな」

「わかった。

朝陽ちゃん、すっかり料理人だね。
俺も抜かれない様に頑張らないと」
ガチャが朝陽を見て頼もしそうに笑った。

「まだまだ全然だよ。そういえばシェフは?」

「八百屋の親父さんの所に行ってる。もう帰ってくるんじゃないかな」
ガチャは回りをいったん片付けると、生地の状態を確認しにいった。

発酵中の生地は木箱に入れて保管して有る。
生地の状態を見ようと、フタを開けたガチャの顔がみるみる真っ青になった。


「やべえ・・・」

 


箱の中の生地がいつもの倍くらいに膨れ上がっている。

発酵オーバーした生地など使えない。
グルテンの鎖が切れてモチモチ感が無くなってしまう上に生地の旨味を酵母に食べつくされてしまうからだ。
慌てて時計を見ると7時になろうとしている。


(間に合わない・・・)

ガチャが呆然としていると、八百屋の袋をぶら下げた英夫が帰ってきた。

「ガチャ、アーリーレッドが安かったからいっぱい買ってきたぞ。
スライスしてランチのサラダに・・・  どうした?」

「シェフ、すいません。 生地の配合を間違えたみたいです」

英夫は生地を手にとって状態を確かめると、すぐにスタッフを集めて指示をだした。

こんな時、ガチャを責めても何も解決しない。

今、何をするべきか。
いかにお客様を満足させるかは経験がものをいう。

 

 

③へ続く・・・