12年前・・・



~12月20日~

この日は寒波がやってきてこの冬1番の冷え込みを記録した。

ということは村上家の恒例の行事の始まりである。

「お父さん、もう7時よ!早く起きないと遅刻するわよ!」

「・・・ あと5分」
「だめっ、起きなさい!」

朝陽はそう言うと英夫が頭までかぶっている布団を引きはがした。
引きはがされた布団の下で英夫は団子虫の様に体を丸めている。

「寒いー、寒すぎる!
おい、朝陽。こんな寒い日に仕事に行けなんてお前は何考えてるんだ!?」

「お父さんこそ、何考えてるのよ! 寒いくらいで仕事休んでたらエスキモーはみんなプータローになっちゃうじゃない!」

「ほー、エスキモーが会社に行くのか?
ネクタイしめるのか?
満員電車に乗るのか?
エスキモーが・・・」

「もう、いいから早くご飯食べちゃってよ!温かいコーヒーも入ってるから」

村上朝陽・・・12才
小学校6年生の女の子で有りながら村上家の家事一切を取り仕切るスーパー小学生。

ケンカと足の速さでは男子に負けた事が無い。

決死の思いで布団から這い出た英夫は、コーヒーで体を温めながらテキパキと家事をこなす朝陽を見ていた。

(こいつにも、もうちょっと小学生らしい楽しみが有ってもいいよな)

朝陽が生まれた時の事が英夫の脳裏をよぎる・・・

 

 

 

 

 

 

もともと体が弱かった妻・優子は、医者に子供は諦める様にと言われていた。

しかし妊娠が分かった時、普段は物静かで大人しい優子がこの時だけは英夫の言う事を聞かなかった。

「ねえ、私どうしても子供が産みたいの。
私達の子供が欲しいのよ。
だってね、私小さい頃から体が弱くていろんな事を我慢してきたでしょ。
子供だけは諦めたくないの。
私の夢なのよ、好きな人の子供を産む事・・・
お母さんになりたいの」

英夫はなんとか説得しようとしたが優子は頑として聞き入れない。
結局、英夫は優子に押し切られる形で子供を産む事に賛成した。

「でも、いいか。お医者さんが危険だと言ったらその時は諦めるんだぞ」

「ありがとう。頑張って元気な子供を産むからね」
優子はそう言って嬉しそうに笑った。




妊娠8ヶ月を迎えた頃に、優子が英夫にこんな事を言った。

「ねえ、子供の名前考えたんだけど。

男の子だったら太陽。女の子だったら朝陽ってどう?」
「いい名前だね」

「そうでしょ!だって太陽って差別をしないでしょ。
元気な人にも私みたいな病弱な人にも、金持ちにも貧しい人にも動物や植物にだって平等に光りを与えるじゃない。
太陽が無くなったら誰も生きていけないのに、そんな力を持ってるのに絶対に差別をしないじゃない。
そういう人に育ってほしいなって思ったの。」

「うん、とってもいい名前だと思うよ」

「じゃ、決まりね!太陽君、朝陽ちゃん元気に生まれてくるんですよ」

優子はすっかり大きくなったお腹をさすりながら、元気に生まれてくるであろう子供に話しかけている。

英夫はそんな妻を見てこのまま全てがうまくいく様な気がしていた。

 

 

出産予定日が近づいてくると英夫は落ち着かなかった。

6月だというのに季節が逆戻りしたような肌寒い夜、終電で帰宅した英夫は優子に話しかけた。

「あと2週間か・・・ 体の調子はどうだ?」

「大丈夫よ。ちょっとお腹が張ってるけど体調はいいわよ。
さあ、明日も仕事早いんでしょ。もう寝ないと」


英夫はホテルのレストランでコックをしている。
帰るのはいつも終電だ。

「悪いな、こんな大事な時に毎日帰りが遅くて」
「大丈夫よ。その替わり子供が生まれてからはたっぷり家事を手伝ってもらいますからね」

「任せとけ!料理と洗濯と掃除以外だったら何でもやるぞ!」
「それじゃあ、今と同じじゃないの!」
二人は楽しそうに笑いあった。


その夜、仕事の疲れが溜まっていた英夫は布団に入るとすぐに深い眠りに落ちた。




深夜2時過ぎ・・



遠くの方で優子の声が聞こえた様な・・・

(なんか言ってる・・
なんだろう、良く聞こえないけど・・・)



「ねぇ・・ お腹痛い・・  生まれる・・・」

優子がかすれそうな声で呟いた時、英夫はまだ夢の途中だった。



(生まれるって言ったな・・・)


(生まれる!?)

英夫はやっと目が覚めて飛び起きた。
すぐ横で優子がエビの様に体を丸めて苦しそうにしている。

「おいっ、大丈夫か!すぐ救急車呼ぶからな!」
英夫は急いで受話器を取り上げると救急車を呼んだ。

 

救急車は5分くらいで来たはずだが、英夫には何時間にも感じられた。

(まだか、まだか・・  早く来いよ!)

「おい、しっかりしろ すぐ救急車が来るからな!」
優子は苦しそうにお腹を押さえたまま何も返事をしない。

救急隊員が駆けつけると英夫は怒鳴った。

 
「妻は体が弱いんです・・ 急いでください!」

優子が担架に乗せられて運ばれて行く。

家の外に出ると夜中だというのに野次馬が出てきていた。
救急車の周りに人だかりがしている。

「おい、どけ!そこをどけ!」
英夫が野次馬に向かって叫んだ。

救急車に乗った英夫は、妻の手を握りながら生まれて初めて神様にお願いした。

(神様、お願いします。
優子と子供を助けてください。俺なんかどうなってもいいから・・  だから、どうかどうか助けてください・・・)

英夫は必死に祈った。
心の底から本気で妻の無事を祈った。
救急隊員も出来る限りの手を尽くしてくれている。


救急車が病院に滑り込むと、待ちかまえていたスタッフが優子の乗った担架をストレッチャーに移す。

「急げ、脈拍が低下してる!」
「おい、揺らすな!妊娠してるんだぞ!」

医者達の怒声が深夜の病院に響きわたる。
優子はそのまま手術室に吸い込まれていった。

「ご主人はここでお待ち下さい」
英夫をひとり残して手術室のドアがピタリと閉められた。


英夫は歩き続けていた。
手術室の前の廊下を何度往復しただろう。

立ち止まると良くない事が起こりそうで不安でしょうがない。

「優子・・・」

英夫がそう呟いた時、「手術中」のランプがフッと消えて医者が出てきた。

 

手術室から出てきた医者は、全身で産声を上げる赤ん坊を抱っこしている。

「元気な女の子です」

医者はそう言って元気な産声をあげる赤ん坊を英夫に渡した。
初めて抱く赤ん坊はあまりにも小さく、あまりにも可愛いかった。

元気な赤ん坊を見て英夫の体から急に力が抜けていく。

(無事だった・・・)

満面の笑みで子供を抱っこした英夫は手術室へ入ると優子に声をかけた。

「おい、良くやった!
元気な女の子だ。お前にそっくりだぞ、良かったな!」

英夫は嬉しそうにそう言ったが優子は何も返事をしない。

「おい、大丈夫か?ほら、赤ん坊だぞ・・・」

英夫の後ろから医者が静かに声をかける。




「ご主人、奥様は残念ながら・・・」

 

 

英夫は医者の言っている意味が分からなかった。
子供を抱っこしたまま、ベッドの横にペタンと膝をついた。

(残念? 残念てなんだ・・ 何、言ってんだコイツ? 残念だと・・ まさか・・・ まさか・・・)

英夫の目から涙が溢れ出る。

 


(そんな・・ 神様・・・
おい神様!お願いしたじゃねえか!
俺の命くれてやるって言っただろうが!
なんで俺が生きてるんだ・・  なんでこいつが死んじまったんだ!ふざけるな!)


英夫は子供の様に声をあげて泣いた。
赤ん坊の元気な産声と英夫の泣き声が深夜の病院に響きわたる。

この夜、英夫は元気な女の子を授かった替わりに最愛の妻を失ってしまった。

 

 

 

 

 

 

「お父さん?ねえ、お父さんってば!」
「ん、何だ?」

「何だじゃないでしょ。仕事に遅れるわよ!」
「あっ、いけねえ!じゃあ行ってくるぞ」

英夫が急いで靴を履いて玄関を飛び出していく。
その後ろ姿を見送りながら朝陽がつぶやいた。

「まったく世話が焼けるんだから」



朝の電車は殺人的な混み方だ。
猫の子1匹乗れないくらい満員なのに駅に着くたびに10人くらいは乗ってくる。

両足がちゃんと床に着いていれば空いているほうだ。
英夫は何とか足を置く場所を見つけて立っていた。

体は全く動かせないので、だいたいは吊り広告を見ている。
英夫の目がふと遊園地の広告にとまった。

(遊園地か・・・ 朝陽を連れて行ってやろうかな
そう言えば、最後に遊園地に行ったのっていつだっけか?)

広告の中の女の子は、若い両親と手をつないで楽しそうに笑っている。
英夫は、なんだか広告の家族に猛然と対抗意識が燃えてきた。

(よし、遊園地に行くぞ!絶対、お前らより楽しんでやるからな!)

気が付くと英夫は広告の家族に向かって「ベーッ」と舌を出していた。

目の前に立っているOLが気持ち悪そうに英夫を見ていた・・・

 

 

 

英夫は4つ目の駅で電車を降りた。
改札を出るといかにも住宅街に有りそうな昔ながらの商店街が続いている。

この商店街を抜けた所に英夫がシェフを務めるトラットリアが有る。

英夫は朝陽が小学生になった時にそれまで務めていたホテルを退職した。

イタリア各地で8年間修行を重ねた英夫は、帰国後、アメリカ資本のホテルにシェフとして迎え入れられていた。

ひと昔前はホテルのメインダイニングと言えばフレンチが主流だったが、最近ではイタリアンに力を入れている所が多い。
英夫はシェフとして高い評価を受けており、将来は総料理長まで狙えるポジションにいたのだ。

しかし妻を亡くし、娘と二人きりの生活をスタートした彼にとって年中無休・24時間営業のホテルでの仕事を続けていく事は難しかった。
知人の紹介でこの店のシェフの話が来た時、英夫は即決した。

料理人としての成功より、父親としての道を歩んでいく事を選んだのだ。

(もう6年になるんだな 変わらないなこの街は)

商店街を歩きながら英夫は立ち並ぶ店を見て思った。
6年間でつぶれた店は1軒も無い。
そのかわり新しく出来た店も1軒も無い。

朝が早いせいか開いてる店はまだ無かった。
この時間に開いている店といえば・・・

「ようシェフ、お早う!」
声を掛けてきたのは、八百屋の親父だ。

「お早う、今日は何かいい物入ってるかい?」
「そうだな、こんなのはどうだ?」

親父が出してきたのはルコラだった。
葉の形が通常の物とは違うようだ。
少し葉先が尖っているような・・

「ふうん、原種に近いタイプだな。こいつは苦みが少なくて旨いんだよ。
それ貰った、あとで持ってきてくれよ。
どうせ昼飯食いに来るんだろ?」

「おお、行くともよ。シェフのカルボは俺のガソリンだからよ!」

親父が禿げあがった頭をツルリとひと撫でして笑う。

 

 

親父に手を挙げて自分の店の方へ歩き出した英夫は(カルボか・・・)と呟くとニヤリと笑った。

 

 


「シェフお早うございます。何、笑ってるんですか?」

店の前で待っていたのは、吉村真由・27才。
英夫がシェフを務めていたホテルで働いていたソムリエの見習いだ。

英夫の料理と人柄にすっかり魅了されていた真由はホテルを退職してくっついてきてしまった。

「何か良い事でも有ったんですか?」

「いや、八百屋の親父さんがいつもカルボばかり食べるだろ」
「そうですね、カルボ大好きですよねー。でも、それが何か?」

「イタリア語の隠語でカルボには別の意味が有るんだよ。ローマ弁だけどな」
「へぇ、知らなかった。何て意味です?」



   「ハゲ頭」



真由はプッと吹き出して
「聞かなきゃ良かったー、もうオーダー取れないですよ」と笑った。

英夫は鍵を開けるとシャッターを持ち上げて店の中へ入った。
店の左側はオープンキッチンとゆったりとしたカウンター席。

キッチンの窓側にはナポリから取り寄せた大きな薪釜がデンと居座っている。
ガラス張りの明るい店内は外を歩く人からも丸見えだ。

薪釜の炎と英夫の華麗なピッツァのフライングは、通りすがる人の足を止めるのに充分な役割を果たしていた。

向かって右側には4名用のテーブル席が6つ。
カウンターの6席と合わせて30席のこじんまりとした 店内は床も壁も全てダークブラウンの木で統一されており、間接照明と相まって暖かな居心地の良い空間になっている。

正面の壁に貼って有るイタリアの地図には英夫が修行したルートが赤ペンで記されている。

右側の壁には英夫がスケッチしたトスカーナの田園風景の絵が飾って有る。
額縁には稲穂のドライフラワー。

 

 

「あいつ、遅いな」
英夫がそう呟いた時、ひとりの男が店へ飛び込んできた。

「お早うございます!
すいません、遅くなりましたー!」

「遅い!シェフより遅れてくる奴があるか!」

「すいませんでしたー」
ハァハァと犬の様に息を切らしているこの男。

山川大介・・・27才 
通称「ガチャ」 笑うと前歯がニュッと出る。
ガチャピンそっくりのこの男もホテルからの追っかけ組だ。

東京の大学に通うため田舎から出てきて一人暮らしをしていた彼は、バイトで入ったホテルで英夫の料理にすっかりとりつかれてしまった。

ガチャがバイトを初めて1年が過ぎた頃、突然コックになりたいと言い出した。
英夫は大学をきちんと卒業したら雇ってやると言ったのだが・・・

なんとこの男、あっさりと大学を中退してしまった。

英夫が大学を卒業しろと言ったのには理由が有る。
コックの現状はとても厳しい。

コックが40才を過ぎると経営者も考え始めるのだ。

(このジジイに辞めてもらえば、若くて体力が有って文句も言わずに働く奴が2人は雇えるな・・・)

こうして突然、職を失う事など珍しくも無い。
又、思わぬケガや病気でコックの道を諦め無ければならなくなる事だって有る。

そんな時、大学を出ているのといないのとではその後の人生が大きく違ってくるのだ。

英夫は腕がいいのに大変な苦労をしている先輩を大勢見てきている。

しかし、辞めてしまったものは仕方が無い。

(こうなったら、どんな事をしてもこいつを1人前にしてやろう)
英夫はそう思っていた。

 

 

「ガチャ、お前すぐ生地を仕込め。4回戦だ。
今日は湿度が高いから気をつけろ」

「了解!」

英夫はストーブの前に立って、パスタのソース作りに取りかかった。
朝の仕込みは重要だ。

開店までにどこまで仕込めるかで1日の流れは大きく変わってくる。
英夫は5口有るストーブをフルに使って次々とソースを仕込んでいった。

気が付けば時計の針はあっという間に10:30を指している。
その時、一人の男が両手で缶コーヒーを抱える様にして店に入ってきた。

背はそれほど高くは無いが、背筋がピンと伸びているせいか長身に見える。
少し下がった目尻と鼻の上にちょこんと乗った丸眼鏡が人柄の良さを思わせる。

この店のオーナー 井口隆人。

 
井口は地元では知らぬ者はいない大地主。

この辺りの土地はほとんど井口家が所有しており、井口町という地名がついているほどだ。
もともと明るい性格で人付き合いが大好きな彼はレストランをやりたくてしょうがなかった。

そこで腕のいい料理人を紹介してくれないかと知人に頼んでみたところ、紹介されたのが英夫だった。

井口と英夫は会ってすぐに意気投合した。
二人が思い描いている理想のレストラン像が全く一緒だったのだ。

そして、誕生したのがこの店『トラットリア パッキーノ』。
パッキーノとはイタリアのプチトマトの事。

日本のそれより2回りほど大きく、市場では枝付きのまま売られている。
その味は濃厚で甘みが強く日本の物のように水っぽくない。

英夫のマルゲリータにこのパッキーノは欠かせない。

バジリコのペーストを練り混んだ緑色の生地に、ざく切りにした大量のパッキーノを乗せる。
その上に水牛のモッツァレラ・ブッファラを乗せたら、オリーブオイルをたっぷりと回しかけ500℃の薪釜で一気に焼き上げる。

焼き時間はわずか1分30秒。

このマルゲリータを食べるために、わざわざ遠くから車で来る客も多い。

 

「シェフお早う!どうだい、ちょっと手を休めてコーヒー飲まないか?」

井口はキッチンに向かって声を掛けるとテーブルの上に缶コーヒーを置いた。

「お早うございます。おいガチャ、生地の具合いはどうだ?」
「いい感じです。1次発酵があと20分くらいですね」
「よし、ひと息いれるぞ」

二人はキッチンを出ると井口と真由が座っているテーブルについた。

店のオープンは11時。
開店前にミーティングを兼ねて、みんなでコーヒーを飲むのがこの店の日課だ。

「シェフ、今日のおすすめはなんだい?」
井口が缶コーヒーのプルを引き上げながら聞いた。

「そうですね・・ 真鯛の瞬間スモークはどうですか?」

「いいね。当店の大人気商品だからな!」

「じゃあ、おすすめの前菜は真鯛の瞬間スモークで、本日のポタージュはクレソンでお願いします」

「OK!スペシャルのマルゲリータは何枚?」

「限定8枚です」
「了解!さて、ではちょっと早いけどオープンするか」
井口が店の入り口を見ながら言った。

半分持ち上げたシャッターの下から足が6本見えている。

 

「斉藤さんと愉快な仲間達か。相変わらず早いな」
英夫が苦笑しながら言った。

11時にはまだ5分ほど有ったが井口はシャッターを押し上げ、待っている客を招き入れた。

表で待っていた3人は「こんにちはー」と言いながら、何故かフラダンスを踊りながら店に入ってきた。

おそらく60才は越えているだろう。
むしろ70才に近いかもしれない。

「いらっしゃいませー、こんにちは。フラの帰りですか?」
真由が笑顔で迎える。

「そうなのよ、踊り足りなくってさ。
ちょっとここで踊ってもいいかしら?」

「もう踊ってるじゃないですか!さぁ、こちらのお席にどうぞ」
真由が笑いながら席まで案内する。

3人のダンサーは仕方なく席に着くと、「シェフ!いつものお願いね!」
と大きな声でオーダーを通した。
まるでそれが合図でも有ったかの様に次々と客が店へと入って来る。

「よし、ガチャ始まりだ。戦闘準備はいいな!」

「オッケーです!」

ガチャはそう言うと、前歯をにゅっと出して親指を立てて見せた。

 

 

 

 

午後1時半・・・

戦争の様なピークタイムが過ぎ客席に空きが目立ち始めた頃、八百屋の親父が店に入ってきた。

「よおっシェフ、ガソリン入れに来たぜ。それからこれ例のルコラな」
親父はルコラをシェフに手渡すと、カウンター席にドカっと腰を下ろした。

「いらっしゃいませ、いつものですか?」
真由がすかさず水を出す。

「おっ、真由ちゃん今日も可愛いね!俺カルボね!」

その言葉にキッチンの中から英夫がすかさず突っ込みを入れる。

 
「えっ、親父さんカルボなの?」

「あぁ、俺はカルボだ」

真由が笑いをこらえながらイタズラっぽい顔で英夫を睨んだ。

 

 

 

午後3時でランチを終わると、一度店を閉める。
”中抜き”というやつだ。
ディナーの開店は5時から。
この間に賄いを食べて、夜の仕込みを終わらせる。

「ガチャ、ちょっと出てくるぞ。生地の状態だけ確認しとけよ。あと、魚介のマリネと鯛の瞬間スモークは終わらしとけ」

「了解!いってらっしゃい」

英夫は店を出ると駅とは反対の方へ歩き始めた。
50mほどで商店街が終わる。
その手前にこじんまりとした可愛らしい花屋が有った。

 

「よお、相変わらずヒマそうだな?」

「あっ、疫病神が来た!
さっきまで、めちゃくちゃ忙しかったんだからね」

そう答えたのは、この店のオーナー 田代優美。
目鼻立ちのハッキリとした美人だ。

優美は良く仕事帰りに英夫の店で1人で晩ご飯を食べていた。
話しているうちに英夫と高校が同じ事が分かってお互いビックリ。
優美は英夫の1年後輩だったのだ。

妻を亡くし娘と二人きりの生活を始めたばかりの英夫にとって、優美は良き相談相手だった。

男まさりのカラっとした明るい性格の優美に何度助けられた事か。


保育ママに朝陽を見てもらえない時に朝陽のお守りを頼んだ事も有る。
朝陽は優美の事を「優美ちゃん」と呼んですっかり懐いていた。

これだけの美人で明るい性格の優美は相当モテる筈だと思うのだが、今だに独身で気ままな生活を送っている。

英夫が缶コーヒーを投げると優美は起用に片手で受け取った。

「なぁ、ちょっと聞きたいんだけどよ。遊園地ってどこが1番面白いんだ?」

優美は缶コーヒーのプルを引き上げながら「朝陽、連れてってやるの?」と聞いた。

「あぁ、あいつにも小学生らしい楽しみが有ってもいいだろ?」

「そうね、朝陽も喜ぶよ。でも大丈夫なの?」

「何が?」

「だって遊園地でしょ。ジェットコースター乗るんだよ!」

「それなんだよ!もう分かってると思うけどさ、一緒に行ってくれよ、なっ」

「せっかくだから二人で行きなよ。
朝陽だってお父さんと一緒に乗りたいに決まってるじゃん」

「お前、俺にジェットコースターに乗れって言うのか!無理に決まってんだろ、あんな物!
だいたい俺は乗り物が大嫌いなんだよ、知ってるだろ」

「バスにちょっと乗っただけでも酔うもんね」

 
「あぁ自慢じゃないが、体重計で酔った事が有るぞ」

「あれって乗り物?」
優美が笑いながら言った。

「乗らなきゃ計れないだろ!とにかく一緒に行ってくれよ、頼むから」

「全く、料理以外はダメ親父なんだから・・・
分かったわよ、朝陽がいいって言ったらね」

 

 

「もちろん、いいよ!優美ちゃん一緒に行こう!」

その声は・・・

「朝陽、お前来てたのか?」
英夫が振り向くと店の入り口に朝陽が腕を組んで立っていた。

「だってお父さん、今日から私キッチンデビューだよ。
店に行ったら”どうせここだろう”って言われたから」


(そうだった。今日から朝陽に店の手伝いをさせるんだった)

朝陽はお父さんをとても尊敬している。
前から店のキッチンで料理を教わりたいと言っていたのだが、今日がそのデビューの日だった。

「よし、店に行くか。
優美、じゃあ遊園地の件はそういう事で」

「オッケー じゃあね朝陽、頑張って。ケガしない様にね」

 
優美がウインクすると、朝陽は腕を曲げて力コブを作って見せた。

 

英夫と朝陽が店に入って行くとスタッフみんなが拍手で迎えてくれた。

「朝陽ちゃん、いよいよ今日からだね。頑張って!これコックコートね」
真由が朝陽に新品のコックコートを手渡す。


「朝陽、ちょっとここへ座れ」

 
英夫がイスを指さした。
向かいの席に自分も座る。

「いいか朝陽良く聞けよ。
店に一歩でも入ってコックコートに袖を通したら、もう俺はお父さんじゃない。
この店のシェフだ。
絶対にお父さんと呼ぶな。
それから、ちょっとでもふざけたり手を抜いたりしたら店から叩き出す。
そして二度とこの店には出入り禁止だ。分かったな」

朝陽は英夫の真剣な表情にちょっと緊張しながら「はい、分かりましたシェフ」と答えた。

「よし。じゃあ着替えたらまずは掃除の仕方を教える。ガチャに聞け」
「はい」

この日から朝陽は本格的に調理の仕事を覚えていく事になった。


朝陽が店を手伝うのは夜8時まで。
この日は初日という事もあって食材の場所、厨房機器の扱い、洗い場、掃除などをしているうちにあっという間に時間になった。

「朝陽、時間だ。みんなに挨拶してあがれ」英夫が器用にピッツァをくるくる回しながら言った。

「はい、わかりました。ではお先に失礼します。
今日はありがとうございました」

 
朝陽はみんなにペコっと頭を下げるとコックコートを脱いで店を出た。

後ろから英夫が追いかけてくる。


「おい朝陽、気をつけて帰れよ」

「うん。お父さんも終わったらすぐ帰ってくるのよ。
ビール飲み過ぎたらだめだよ。
また、朝起きれなくなるから」


「はい・・」

 


「起きなかったら叩き起こすからね」


「はい・・」

 

「じゃあ仕事頑張ってね。みんなに迷惑かけたらだめだよ」


「はい、わかりました・・・」

朝陽は英夫に背を向けると駅の方へ歩いていった。
その背中に英夫が声をかける。

「お疲れさまでしたー」

その様子を店の入り口からみんなが顔を出して覗いている。

英夫は振り返ると「おい、
何見てる!ほら戻って仕事しろ」と怒鳴った。

「はい」みんなはニヤニヤしながら店へ戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

翌日の朝は昨日にもまして冷え込んでいた。
ということは・・・



「お父さん、もう7時よ!早く起きなさい!」
「頭痛い・・・ あと5分」
「だめっ、起きなさい!昨日ビール何杯飲んだのよ」
 
「・・3杯」
 
 
「本当は?」

 
「・・・6杯」

「だから言ったじゃない。ほら、起きなさい!」
朝陽はそう言うと英夫が頭までかぶっている布団を引きはがした。

引きはがされた布団の下で英夫は団子虫の様に体を丸めている。

「寒いー、頭痛い! 寒すぎるー、頭痛い! めっちゃ寒いー、頭・・」

「うるさい、起きろー!」

英夫は布団を取り上げられて仕方なく起き出した。

テーブルにつくと朝陽が入れてくれたコーヒーで体を温める。
窓の外に広がる空は澄み切っていて雲ひとつ無い。

朝陽は洗濯物をカゴに入れてベランダに出ていくと、丁寧にシワを伸ばしながら干し始めた。

「なぁ朝陽、遊園地どこがいいか決めておけよ」
「無理しなくてもいいよ。休みの日はゆっくり寝てたいでしょ」

「大丈夫だよ、行こうぜ」
「本当に連れていってくれるの?じゃあ、優美ちゃんと決めちゃっていい?」

「あぁ、いいよ、もうすぐ冬休みだろ。店の定休日に行こうぜ」
「うん!ありがとう、お父さん」

朝陽は洗濯物を干しながら嬉しそうに笑った。
 
 
 
 
 
その日の夜は早い時間から常連が集まりだして賑わったものの、8時過ぎには皆帰ってしまい店の中は閑散としていた。
洗い物を終えてひと息ついたところに優美が入ってきた。

「今晩は。あらヒマそうね」
「あっ、疫病神が来た!さっきまで忙しかったんだぞ」
すかさず英夫が切り返す。

優美は手にパンフレットの様な物を持っていた。

「それ何だ?」
「遊園地のパンフだよ、朝陽と決めたの。ここに行きたいんだって」
優美はそう言いながらパンフレットを英夫に手渡した。

パンフレットには最近出来たジェットコースターの写真がでかでかとのっている。

それを見た英夫の顔がみるみる青ざめていく。
写真の横にはこんなコピーが書いてあった。

「世界最速!地上40mから垂直落下!
もう絶叫マシンとは呼ばせない。
世界最強失神KOマシン

  ”コブラツイスト”

乗る前に遺書のご用意を・・
それでも乗りますか?それとも人間やめますか・・・」

「あっ、これ知ってますよ。
私の友達が乗ったんだけど、本当に絶叫する間もなく失神したんだって」
真由が言うと

「俺の友達も乗ったよこれ。相当ヤバイらしいね」
ガチャが輪をかけて言う。
 
「いやぁ本当にすごいね!こんなの俺は乗れないよ。シェフ大丈夫かい?」

井口がパンフレットを覗き込みながら言った。

英夫はその声が聞こえていないのか、パンフレットを持ったまま微動だにしない。
 
「シェフ・・ 大丈夫かい?」
 
英夫は相変わらず無反応。

みんなは思わず顔を見合わせた。


「失神してる・・・」
 
 
 
 
ー12月25日ー

この日の最後の客を送り出すと英夫は皆に声をかけた。
「お疲れ!みんな良く頑張ったな。取りあえずビールで乾杯しよう。片付けはそれからだ」

真由がグラスにビールをついで、皆に配ってまわる。

「お疲れー」
「お疲れさまでしたー」
「メリークリスマース!」

「いやぁ、今年のクリスマスは凄かったな」
「本当ですよ!俺なんかローストチキン何羽焼いたかわかんないっすよ」
「ワインも飲み尽くされたよな」
ワインセラーを覗くと中はガランとしていて、もう4本しか残っていない。


この店がオープンして6年。
地道に営業してきた成果が着々と実を結んできている。

英夫が作る料理はもちろんだがレストランを愛し、お客様を愛するスタッフが作り出すこの店の雰囲気に惹かれている客が多いのも事実だ。

「真由、明日は定休日だから明後日の納品でワイン揃えておけよ。
年末年始の分も見越していつもより2割くらい多めに在庫しとけ」

「はい、わかりました」

「ガチャ、お前は肉屋と魚屋の発注だしとけ。
ストックは業者にしといて貰って、必要分だけ配達してもらうんだぞ。
全部来てもしまう所ないからな」

「了解しました」

「さて、片付けるか」

英夫がグラスを洗ってキッチンに入ろうとするとガチャが声をかけた。
「シェフ、後はやっておきますからもうあがって下さい」

「なんで?」

「明日、朝陽ちゃんと遊園地ですよね。朝早いんじゃないですか?」

「遊園地・・  そうだった・・・」
 
英夫はジェットコースターの写真を思い出して一瞬気が遠くなった。
ふと我に返るとガチャと真由が両腕を支えている。


「お前ら何やってんの?」

「いや、すっかり反射神経鍛えられちゃって。
だってシェフ、もう失神8回目ですよ」




ー翌朝ー

朝陽は目覚ましが鳴る前に目をさました。
英夫はまだ熟睡している様だ。
リビングに行ってカーテンを開けると、抜ける様な青空が目に飛び込んできた。

「やったぁ! すっごい、いい天気」

窓の外にはバスタオルで作った特大のてるてる坊主がぶらさがっている。
朝陽はてるてる坊主に向かって敬礼した。

「よくやった、君の任務は完了だ。
ご褒美に今日は特別に柔軟剤で洗ってあげよう」

任務を完璧に遂行した部下を誉めた朝陽は、早速自分の任務にとりかかる事にした。

弁当作り。

遊園地に弁当はかかせない。
弁当の出来にこのイベントの成否がかかっていると言ってもいいくらいだ。
最大のポイントはメインディッシュをおにぎりにするかサンドイッチにするか。

朝陽は悩んだ末に両方作る事にした。

おかずは鶏の唐揚げ、玉子焼き、タコさんウインナーこれは定番。

しかし茹でたブロッコリーにアンチョビソースをかけて有るところや、プチトマトの中にリコッタチーズをつめているあたりがシェフの娘だ。
 
 
なかなかやるな朝陽。
 
 
 
②へ続く・・・